熊本市西区のJR熊本駅近くに鎮座する北岡神社。願いが叶う千年の夫婦楠『良縁まいり』縁結び・安産のご利益が授かる肥後の古名社。


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主祭御由緒
藤原保昌(ふじわら やすまさ)
保昌の肖像画
保昌の肖像画
 藤原保昌は、天徳二年(958)〜長元九年(1036)の人物とされ、摂津国平井に居住していたことから平井保昌とも称し、当時栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。
 公家の出身でありながら武勇に秀でており、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、勇気があり武略に優れた人物であったと称え、「今昔物語集」にも「兵の家にて非ずと云えども心猛くして弓箭(武芸)の道に達せり」と記されており、道長四天王の一人として名声を博していました。
 その武勇を物語る話も伝わっております。有名なものに、源頼光を始め金太郎で知られる坂田金時らと共に大江山に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を征伐した、という伝承があります。
 また、「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」には袴垂(はかまだれ)との逸話が記されています。「袴垂と名乗る大盗賊の親分が朧(おぼろ)月夜の下、笛を奏でながらたった一人でゆっくりと歩く男を見つけた。袴垂は身ぐるみを奪おうと近づいたが、男は全く怯える様子もなく、逆にその堂々とした気迫に圧倒され何もできずに男の屋敷で着物を恵んでもらった」とあり、「この男の名は藤原保昌であった」という内容です。強剛なだけでなく笛の名手でもあり、風雅な一面もあわせもっていたことが覗えます。
 道長の信頼は厚く、この保昌を肥後国司として赴任させることとなりました。道長の日記である「御堂関白記」(みどうかんぱくき)には、保昌が肥後守を命じられて寛弘二年(1005)に熊本に赴いたことが記されています。これは、この当時、肥後国では国司が殺されるなど治安が非常に悪かったため、武勇の誉れ高い保昌に任せられたとされています。
京国司神社
京国司神社(境内)
 一方、当神社の社伝『祇園宮御由来其外一式記録』(寛政二年)にある「祇園宮御勧請式」によると、保昌が府中鎮護と疫病退散ため八坂神社の御分霊を承平四年(934)に、肥後国府へ勧請され祇園社として祀ったとされております。このことは「肥後国誌」にも同じ年代で記されており、前述の「御堂関白記」による保昌が肥後に赴任したとされる時期と当神社の創建年代には差異が生じていますが、当神社では、承平四年を勧請創建年代として代々受け継がれ今に伝えられています。
 また、熊本市にある健軍神社にも「承平年中肥後守保昌修宮殿」との伝承により保昌が承平年間に社殿を修復したことがあり、熊本の各地には「ほうしょうという国司があちこちの神社を修繕した」とも伝わっており、保昌が敬神の念厚く神社再建にも力を注いでいたことが窺い知れます。
和泉式部
和泉式部
 後に、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、情熱的な恋愛歌を多く残したといわれる歌人の和泉式部と結婚しました。八坂神社には祇園祭の山鉾の一つに、保昌に因んだ「保昌山(ほうしょうやま)」といわれるものが行列に加わっています。その姿は、太刀鎧をつけ勇ましい格好の保昌が、紅梅をたくさん持って捧げている様子を表しています。これは、「保昌は和泉式部に惚れ、宮中に咲く梅の花を持って来て欲しいとの願いを叶えるべく、夜中に忍び込んでそれを盗み出し、見事に結婚が実った」という故事を題材にして作られており、昔はこの山鉾を「花盗人山」とも呼んでおりました。
 他に大和守や摂津守なども歴任し、まさに名実ともに優れた人物であったということは言うまでもありません。
 当神社境内に摂社として、祇園社勧請の尽力を称え、藤原保昌を御祭神と仰ぎ「京国司神社」として天下泰平・勝運守護の御神徳高き神としてお祀り申し上げております。
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