熊本市西区のJR熊本駅近くに鎮座する北岡神社。願いが叶う千年の夫婦楠『良縁まいり』縁結び・安産のご利益が授かる肥後の古名社。


案内
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縁の地
ゆかりの地を訪ねて 当神社に歴史的な関わりが深い神社や場所をご紹介いたします。
総社神社
総社神社(万町)
総社神社(万町)
 須盞嗚尊の荒御霊をお祀りし、当神社より車で5分程の万町一丁目にそびえる大楠の下に鎮座されます総社神社。
  肥後国誌によると「万治元年(1658)安楽寺の住僧により日光東照大権現と鎮守総社大明神を同寺に勧請した」と記されており、当初は神仏習合の形態で祀られました。この安楽寺の住僧は他寺の住僧と共に代々北岡神社の例祭に奉仕するのが慣わしとなっておりました。
  明治になって神仏分離令に伴い「安楽寺」から「総社神社」が分かれることとなりました。この安楽寺は西南戦争で罹災し焼失してしまい廃寺となりましたが、総社神社は今も氏子地域住民の方々に篤く尊崇されております。尚、ここには人形師松本喜三郎作の「閻魔大王像」が残されており、現在は熊本市五福地域開発センターに展示し保存されております。
閻魔大王
閻魔大王
 また、この神社周辺の風習として昭和の初めまで「イゴモリ」という新年の豆まき行事がありました。一月七日の夜になると大きな商家では親戚客人一同が家に集まりました。年神を祀った年神棚の前で当主が「イゴモリ」と三声を掛けると家中全ての火を消し、暫く暗闇が続いた後に「福は内」の声で一斉に豆を撒き、年神棚に灯してこの火で家中の灯をつけました。撒いた豆は歳の数だけ拾い集め町の四隅に納めた後、一同座敷にて賑やかな宴を催していたということです。
  この「イゴモリ」の発祥は、天禄元年(970)一月七日から北岡神社で執り行なわれるようになった悪魔祓の神事である「居籠の祓」が民衆化したものと考えられます。それが近年まで行われておりましたが、現在は残念ながらこの神事、行事ともに行なわれておりません。
清原神社
清原神社(北岡神社下)   手水鉢
清原神社(北岡神社下)
 
手水鉢
 三十六歌仙に称される和歌の名人で清少納言の父としても有名な、清原元輔公の御霊を御祭神として祀った神社であります。
  肥後国司として寛和二年(986)から永祚二年(990)間まで府中に赴任しており、その善政は民衆の人望を集め、この肥後から去った後もその徳を慕い、いつしか神社が建立されたといわれております。
  また肥後の平安女流歌人として知られる檜垣嫗とも交友があったことでも知られております。
  神社の場所は北岡神社の北斜面に位置し、元々この一帯は当神社境内の茶畑でありましたが、現在は道路建設により分断され飛地境内地となっております。
  この清原神社境内には、「奉寄進石盥、元文四年(1739)呉服一丁目」と刻まれた手水鉢が現存しております。
横手阿蘇神社
横手阿蘇神社   横手五郎像
横手阿蘇神社
 
横手五郎像
 花岡山麓の横手町に鎮座され、阿蘇の大神である健磐龍尊を始め十二神をお祀りしております。この阿蘇神社境内にはお堂があり横手五郎像が安置されております。
  横手五郎は戦国武将の子として天正十三年(1585)に横手村で生まれました。五歳の頃には米俵を担ぎ、九州一の筑後の男を投げ倒したなどの力話が残っております。
  天正十五年(1587)の天草の乱で、加藤清正公と一騎打ちをして敗れた父の仇をとるため、清正公が熊本城を築城の時代に五郎は石運びの人夫として働いていたとされます。凹形の大石を軽々と首に掛けて運ぶその怪力無双と真面目な働きぶりが次第に評判となりましたが、清正公に仇討を見破られてしまい井戸の中へと落とされて殺された、と伝わっております。人々はこの五郎の死を哀れみ吉祥寺に祀りました。
 明治になり横手阿蘇神社の境内に毘沙門堂が建立され、そこに横手五郎大明神として祀られました。
  昭和五十一年に不慮の火災により神社の一部や毘沙門堂が焼け、五郎像も類焼しましたが、その後再建を果たし今でも親しみを込めて「横手の五郎さん」と呼ばれております。また同横手町には横手五郎碑もあり、当神社から赴いて御霊鎮めの祭事を斎行しております。
乳水
乳水(花岡山中腹)
乳水(花岡山中腹)
 当神社が正保四年 (1647) まで鎮座されていた花岡山は、古くは「祇園山」と仰がれておりました。今でもその旧社地一帯を祇園平といい、一角には「乳水」と呼ばれる湧き水があります。
 この湧き水は、天元二年 (979) 当神社が府中からこの山の山頂に遷座された折、神託があって拝殿の傍らから岩清水が湧き出し、以来祇園社の手水として使われるようになったと云われております。
 また、乳水と呼ばれるようになった由縁は肥後国誌に次のように記されております。
「古祇園 祇園平ニアリ。祇園社ノ旧址ナリ。僅ノ清水湧出ス。里俗嬰子ノ此乳味乏シキニ水ヲ乳母ニ飲シメ賽ニ醴ヲ供シ其ノ応アリト云。」
古い祇園は祇園平にあって祇園社の跡地のことをさす。ここの岩間から清水が湧き出している。この清水で甘酒をつくって飲むと母乳がよく出るようになるので、乳の出が少ない母親が水を求めて集まった。とされています。
 現在もこの地からは水が湧き出しており、「乳水」の標柱が立てられ今に伝えられています。
祇園橋
以前の祇園橋(昭和47年頃)
以前の祇園橋(昭和47年頃)
 この橋は、当神社近くの坪井川に架かる鉄筋コンクリートアーチ橋です。
  明治二十四年(1891)当時、熊本駅ができてからも市街地までの交通は坪井川を挟んで渡し舟を使っており非常に不便でありました。そこで明治三十五年(1902)明治天皇が熊本への行幸に際し、この不便さを解消するために、当神社側の春日町久末から対岸の細工町を直接結ぶ橋が新設されました。これは当神社の真下に位置することから「祇園橋」と名づけられました。
  大正七年(1918)熊本市は新たな都市づくりを目指して大規模な近代化事業が展開されていた時期で、こうした中「祇園橋」は国内では初期、県下では最初の鉄筋コンクリートのアーチ橋に架替えられました。大正十三年(1924)には路面電車も通り始め、「祇園橋」はまさに近代化のシンボル的存在として注目を集めておりました。
現在の祇園橋
現在の祇園橋
 平成十四年に都市計画道路の建設に伴い、熊本の陸の玄関口にふさわしい新たな道路橋に生れ替わり現在に至っております。
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