松囃子神事

松囃子神事

松囃子神事(御能)

能面

能面

松囃子(まつばやし)とは新年をお祝いする芸事のことで、一月の季語にも使われており、この慣習は室町時代初期に始まり次第に広がったといわれております。

当神社の現在の松囃子神事は、一月五日午前十一時からの神事後に拝殿内にて能楽が仕舞奉納されます。これは「本座」と「新座」の両座によって仕舞が奉納されており、最初に「高砂」を本座であるの喜多流が舞い、次に「羽衣」を新座の金春流が舞い、最後に「惺々」を喜多流が演じるということになっています。また、例大祭最終日の八月三日にも同じく、午前十時の献幣祭後に仕舞が奉納されております。

この御能の由来は、『祇園社御由来其外一式記録』にある享禄四年(1531)に申上された書面によると、承平四年(934)に当神社が京都より勧請されるのに伴い、六人の楽人も御供して肥後に定住し、やがてその子孫が祇園社専従の能楽師となっていったとされています。このことからも、祇園社における松囃子が肥後における能楽の源流と云われる由縁でもあります。

その後、大永二年(1522)にこの子孫の伊津野但馬守が宝祚御安全・将軍家御長久祈祷の御札を奉じるため上洛する途中で、長門国(山口県)で白狐を捕らえ朝廷に捧げた功績により「新座」のお許しを天皇より賜り、これに伴い元々の座は「本座」と称し舞楽を奉じていました。

能舞台及桟敷割図

能舞台及桟敷割図
(寛政八年正月)

江戸時代になると、能楽をこよなく愛好した歴代細川藩主から手厚い保護を受けながら広まりをみせてまいりました。この頃から本座は友枝家を主範とした謡曲喜多流を始め、寛政二年(1790)頃には本座太夫として友枝源十郎と小早川徳右衛門がつとめていました。新座は桜間家を主座に金春流を立て、同年頃には新座太夫として桜間左陳がいました。両座ともに毎月一日・十四日・十五日・二十八日に神前で管弦を奏ずるとともに、三十三度の年中祭祀の時には交替で出仕しておりました。この両派により、肥後の国での能楽は全国的にも抜きん出た隆盛を極めることとなりました。

当神社でも境内にあった能楽殿にて両座による繊細優美な能楽が披露され、それを取り囲む桟敷席には当時の要人達や多くの参詣者が規律正しく観賞していたことが、天和三年(1683)に肥後藩士が当時の年中行事や風習を書き綴った『歳序雑話』に記されており、正に神人和楽の境地にひたっていたことが覗えます。尚、宝物である能面十二面は、寛文八年(1668)に肥後藩八代城主であった松井(長岡)直之公より奉納されたものです。

明治時代になると廃藩置県の影響を受け、藩からの保護がなくなり能楽も衰退していくことになりますが、その見事に大成された熊本の能楽は今もなお、守り継がれております。

後に能楽殿はなくなってしまいましたが、その伝統と格式は脈々と受け継がれ、現在は拝殿内で両派が仕舞を奉納するようになり今日に至っております。

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