神幸行列

神幸行列

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当時の神幸行列の形態をみると『祇園宮御由来其外一式記録』に、『行幸之次第』が天慶二年(939)六月十四日の日付で記載されています。神幸行列の先頭を三色の鉾が進み、続いて笛や太鼓にどら等の鳴り物、そして神馬と三基の神輿が行幸し、神輿の両脇には御太刀や唐団扇が御供につき、後方には神官や勅使代と伝奏たちが輿に乗り、三百人もの隋兵騎馬隊が続き隋兵頭と国司が進み、最後は町々より鉾が多数出された、とされています。

また、『大祭神幸式之順』(大正七年)には、前駆として神職二名が馬に乗り先導し、太鼓の後を大旗や赤白の旗に猿田彦大神を奉じた神輿とお供え物、神馬に鉾や弓、長刀や太刀等の威儀物と甲冑騎馬が続き、金幣・御幣の後を御本社神輿、社司と社掌が馬に乗って進み、騎馬隊の後方には氏子町村の旗が並んでいた、とされ大勢の人々がこの行列に加わっていたことがわかります。

大正期の神幸行列の様子(大正九年八月)

大正期の神幸行列の様子
(大正九年八月)

この記録にはご巡幸の道筋も記されており、神社より祇園橋~細工町~西唐人町~中唐人町~鍛冶屋町~上鍛冶屋町~古川町~山崎町~練兵町~辛島町九州新聞社前~記念碑前~辛町~天神社(現在の山崎菅原神社)で御休憩され、天神町~桜町~上洗馬町~下洗馬町~洗馬町~紺屋町~万町~米屋町~魚屋町~呉服町~西唐人町~上小沢町~板屋町~細工町~大工町~万町~米屋町~中阿弥陀町~西阿弥陀町~細工町~石塘~二本木町~遥拝社(旧社地)の御旅所に着き、宮寺区~田崎区~万日区~春日区より神社へ御還幸されていたとあります。

後の『熊本県祭礼調』(昭和三十年)によると最後の神幸行列の道筋は、神社より祇園橋~細工町~唐人町~鍛冶屋町~古川町~紺屋今町~新市街~行幸町~山崎天神で御休憩され、天神町~行幸町 船場町~古川町~慶徳堀町~松原町~万町~呉服町~古桶屋町~川端町~二本木石塘~二本木町~二本木グラウンド(旧社地)の御旅所に着き、宮寺町~田崎~万日~春日町より神社に御還幸され、現存の町名からも氏子地域を中心に行列が行われていたことがわかります。

夏祭りの奉納演芸の様子(昭和七年八月)

夏祭りの奉納演芸の様子
(昭和七年八月)

このように厳粛かつ盛大に執り行われていた神幸行列が途絶えて半世紀余りが経過した今、当時の「祇園祭」を復興させることが御神威の高揚に繋がるものと信じ、その諸準備も徐々に進められているところです。皆様方の暖かいご支援とご協力を切にお願い申し上げます。