神社の歴史

北岡神社の歴史

  1. 北岡神社について
  2. 神社の歴史
  3. 御祭神
  4. 御神木
  5. 縁の地と摂末社
  6. 境内の様子

平安時代中期

当神社は承平四年(934)第六十一代朱雀天皇の御代に、武勇名高い藤原保昌が肥後国司として下向された際、凶徒の叛乱と疫病の流行を鎮めるために京都の祇園社(八坂神社)の御分霊を勧請し、飽託郡湯原(現二本木五丁目)に府中の鎮護として創建されたのが始まりとされ、当地でも祇園社、祇園宮と尊称されていました。

久邇宮朝融王殿下御染筆神額

久邇宮朝融王殿下御染筆神額

まもなく承平七年(937)には、湯原から程近い車屋敷(現二本木二丁目)に遷座され、京よりお供して来た神官・僧侶・伶人等もこの神域に居住していました。
 天慶九年(939)から冷泉天皇の頃まで年毎の祭祀の際には、勅使が遥々京より勅願社であった当神社に参向されるのが恒例でありました。肥後国誌によると安和二年(969)からは国司となった菅原光家が勅使も兼勤するようになってこの地に留まり、その末裔である光永家が代々に亘り勅使代としてその任に就くようになりました。勅願社というのは、天皇が国家鎮護などを祈願するよう命じた神社のことをさし、当神社は創建当初から『宝祚無窮、天下泰平、国家安全、悪魔降伏、西九守護』の勅願社として、代々天皇より篤く尊崇されておりました。

御朱印の由緒

「日本第弐 西九壹社」御朱印

天暦二年(948)に第六十二代村上天皇より「拝三山」の勅額を賜りました。久寿二年(1155)にも第七十六代近衛天皇より「顕神院」の勅額とともに、「日本第弐 西九壹社」の尊称と御紋章を下賜頂きました。それは「日本では(京都の御本社に次いで)第二の祇園社であり、西の九州では第一の祇園社である」との意味であり、現在もこの尊称を御朱印に用いております。また、御紋章は祇園木瓜を上下にわかち、その上半分を賜った当神社特有のものであります。

天元二年(979)朝日山(岡見山)に遷座、これに因み祇園山と呼ばれるようになりました。この山は明治になり招魂社建立に伴い花岡山と改められましたが、今日でもその山頂一帯を祇園平と呼ぶ名残があります。

この間火災等で社殿及び綸旨や古文書等が焼失する災難が幾度かありましたが、長承元年(1132)に菊池氏が社殿を造営し、神領も寄進され神威を取り戻しました。

戦国の世から明治まで

明治初期頃の神社境内絵図

明治初期頃の神社境内絵図

戦国の世、天正十五年(1587)佐々成政支配下の際には、古例を廃し神領も断絶されましたが、江戸時代に入り慶長十年(1605)加藤清正の肥後入国により再び復興されました。細川藩下に於いては尚一層尊崇され、島原出陣の際には戦勝祈願を厳修し、寛永九年(1632)には社殿が新たに造営されました。正保四年(1647)、第二代藩主細川光尚により北岡の森(現在地)に遷座され、古府中にあった社等も境内に移し摂末社として祀られました。この地は古くより古府中から北に位置する丘陵地として北岡と呼ばれ、方位的にも尊ばれていた場所でもあります。

維新後の明治元年(1868)には神仏分離の流れを受けて「北岡宮」、同四年に「北岡神社」と改称し、翌五年に県社に列せられました。
 同十年(1877)の西南の役では、一時薩摩軍の本営が境内に置かれ、同十七年(1884)御鎮座九百五十年祭記念事業として丘上を拓き社殿を丘中腹から移し摂末社と共に丘上に御遷座されました。

久邇宮朝融王殿下御参拝

久邇宮朝融王殿下 御参拝(昭和八年四月)

御鎮座一千年式年大祭
久邇宮朝融王殿下 御参拝(昭和八年四月)

昭和八年 (1933) 四月には御鎮座一千年を向かえるにあたって、久邇宮殿下より直筆の御神額を賜り、御参列を仰ぎ同式年大祭が斎行され、翌九年 (1934) 十一月に御社殿が新造され御遷座記念大祭が執行されました。
 同三十三年 (1958) 御鎮座一千二十五年記念に神楽殿を新造し、同五十八年 (1983) に御鎮座一千五十年記念事業として拝殿や楼門を改修し、社務所や会館等を新築しました。

藤原保昌

藤原保昌(ふじわらの やすまさ)は、天徳二年(958)~長元九年(1036)の人物とされ、摂津国平井に居住していたことから平井保昌とも称し、当時栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。

保昌の肖像画

保昌の肖像画

公家の出身でありながら武勇に秀でており、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)では、勇気があり武略に優れた人物であったと称え、「今昔物語集」にも「兵の家にて非ずと云えども心猛くして弓箭(武芸)の道に達せり」と記されており、道長四天王の一人として名声を博していました。
 その武勇を物語る話も伝わっております。有名なものに、源頼光を始め金太郎で知られる坂田金時らと共に大江山に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を征伐した、という伝承があります。

また、「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」には袴垂(はかまだれ)との逸話が記されています。「袴垂と名乗る大盗賊の親分が朧(おぼろ)月夜の下、笛を奏でながらたった一人でゆっくりと歩く男を見つけた。袴垂は身ぐるみを奪おうと近づいたが、男は全く怯える様子もなく、逆にその堂々とした気迫に圧倒され何もできずに男の屋敷で着物を恵んでもらった」とあり、「この男の名は藤原保昌であった」という内容です。強剛なだけでなく笛の名手でもあり、風雅な一面もあわせもっていたことが覗えます。

道長の信頼は厚く、この保昌を肥後国司として赴任させることとなりました。道長の日記である「御堂関白記」(みどうかんぱくき)には、保昌が肥後守を命じられて寛弘二年(1005)に熊本に赴いたことが記されています。これは、この当時、肥後国では国司が殺されるなど治安が非常に悪かったため、武勇の誉れ高い保昌に任せられたとされています。

京国司神社(境内)

京国司神社(境内)

一方、当神社の社伝『祇園宮御由来其外一式記録』(寛政二年)にある「祇園宮御勧請式」によると、保昌が府中鎮護と疫病退散ため八坂神社の御分霊を承平四年(934)に、肥後国府へ勧請され祇園社として祀ったとされております。このことは「肥後国誌」にも同じ年代で記されており、前述の「御堂関白記」による保昌が肥後に赴任したとされる時期と当神社の創建年代には差異が生じていますが、当神社では、承平四年を勧請創建年代として代々受け継がれ今に伝えられています。

また、熊本市にある健軍神社にも「承平年中肥後守保昌修宮殿」との伝承により保昌が承平年間に社殿を修復したことがあり、熊本の各地には「ほうしょうという国司があちこちの神社を修繕した」とも伝わっており、保昌が敬神の念厚く神社再建にも力を注いでいたことが窺い知れます。

和泉式部

和泉式部

後に、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、情熱的な恋愛歌を多く残したといわれる歌人の和泉式部と結婚しました。八坂神社には祇園祭の山鉾の一つに、保昌に因んだ「保昌山(ほうしょうやま)」といわれるものが行列に加わっています。その姿は、太刀鎧をつけ勇ましい格好の保昌が、紅梅をたくさん持って捧げている様子を表しています。これは、「保昌は和泉式部に惚れ、宮中に咲く梅の花を持って来て欲しいとの願いを叶えるべく、夜中に忍び込んでそれを盗み出し、見事に結婚が実った」という故事を題材にして作られており、昔はこの山鉾を「花盗人山」とも呼んでおりました。
 他に大和守や摂津守なども歴任し、まさに名実ともに優れた人物であったということは言うまでもありません。

当神社境内に摂社として、祇園社勧請の尽力を称え、藤原保昌を御祭神と仰ぎ「京国司神社」として天下泰平・勝運守護の御神徳高き神としてお祀り申し上げております。

北岡神社について